近年、芸能人や国会議員の不適切発言が問題になっています。
周知のとおり、国会議員の発言や地方議員の発言、さらには、ヘイトスピーチなどもです。
ネットには誹謗・中傷がたくさん出てきますし、日常生活では、差別発言や陰口、悪口などを言っている人によく出会います。
個人的には、不適切発言者は、いわゆる「空気が読めない」人や言葉以上のことに無関心の方が多いと気がします。
そのような言葉以上のことを分析するのが、社会言語学や哲学の役割です。
今回は、不適切発言について考察します。
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①ヘイトスピーチから見る不適切発言の分類
私たちが他人と会話するとき、言葉の意味だけではなく、その場の雰囲気・文脈・時間・場所などの様々なことを考慮しています。
例えば、相手が同性か異性かで選ぶ言葉も変わりますし、喫茶店や電車内でも口にする言葉は違います。
この言葉以上のことは、言葉の意味と同じくらい大切です。
不適切発言は、言葉以上の部分を考慮しない発言であるとも言えます。
では、この言葉以上のことに関する研究はどのくらい進んでいるのか?
結論から言えば、あまり研究されていないのが実情です。
山下(2016)によると、
特に日本語圏での語用論やポライトネス研究の前提は、お互いに理解し合い、友好的な関係を作ろうとするためによいコミュニケーションがなされる、ということであり、その前提の上でどうしたらよりよいコミュニケーションがなされるのか、ということを研究してきた。
つまり、言語学、特に、言葉以上のことを研究する社会言語学では、良いコミュニケーションの研究が主流だったのです。
それゆえ、「友好的な関係を作ろうとしない陰口、ヤジ、ヘイトスピーチなどは研究されてこなかった」(山下, 2016)のです。
例えば、医学の研究では、まず病気が先にあることから研究が始まります。
この傾向は多くの学問で共通しています。
まず、困ったことが先にあって研究が始まることが多いのです。
そこで、山下(2016)は、以下のように発想を転換しました。
よりよいコミュニケーションについていろいろと研究しても、現実の社会に存在するさまざまなコミュニケーション上の問題は解決しないかもしれない。そもそもそうした問題があるところでは、ある意味でコミュニケーションが成立していないケースも存在するからである。そうであるならば、「コミュニケーションは成立する」ということを前提とせず、コミュニケーションが成立しないケースについて考察してみることは、無意味ではないだろう。
社会言語学でも、ようやく困っていることに目を向けるようになってくれました。
山下(2016)は「ことばの暴力」としてヘイトスピーチを取り上げます。
その分析結果として言葉の暴力の類型が下の図になります。

この図は、陰口・ヤジ・ヘイトスピーチについて、社会言語学的な類型を表したものです。
これら不適切発言の大まかな特徴は、会話の方向性が「一方向的」であることです。
例えば、空気が読めない人の発言や言葉以上のことを考慮できない人は基本的に相手のことを考えずに「一方向的」に話す人が多い気がします。
では、言葉以上のことを考慮できない人はなぜ不適切発言を堂々と言えるのか?
このことに哲学の観点から迫ります。
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②なぜ堂々と不適切発言ができるのか?
不適切発言をして堂々といられる大きな理由の一つは、「恥」を理解していないことが挙げられます。
理由は、不適切発言はその場やその人物にふさわしくない発言であるため、恥が生じるのが普通の人間の感覚としてあるからです。
この「恥の欠如」がキーワードのような気がします。
中村(2018)による恥の哲学的分析は、このことを裏付けてくれます。
中村(2018)は、「残念ながら恥の感情は未だ倫理学の中でその意義を十分に認められているとは言えない」ことに留意し、「恥を知れ」という非難を皮切りに恥の分析をしています。
中村(2018)によると恥の感情には、「自分に向けられた否定的判断」と自分に視線を向ける「見物人」という二つが存在すると言います。
そして、前者を「判断」とし、後者を「視線」として、恥の類型化を行っています。
その結果が以下の通りです。
恥の自律性と他律性を巡って四通りに組み合わせが可能になる。
(A)恥は判断に関しても視線に関しても他律的である。
(B)恥は判断に関しては自律的だが視線に関しては他律的である。
(C)恥は判断に関しては他律的だが視線に関しては自律的である。
(D)恥は判断に関しても視線に関しても自律的である。
ちなみに、他律的とは他人の視線や評判のように他者の存在を仮定する場合を指します。
自律的とは「自分が思い描いたのとは違う」や「自尊心が傷つく」など自分が自分を責めるようなことを指します。
中村(2018)はこれら四つの類型を区別しますが、重要なのはBとDだと述べています。
具体的にBでは、「恥にとって重要なのは自分が自分を否定的に判断することであり、他人から否定的に判断されることではない」ことです。
例えば、中村(2018)はバレーダンス部の男子がサッカー部の男子に「男がバレーなんて気持ち悪い」と言われる場面を例にしています。
この場合、バレーダンス部男子が「バレーは素晴らしい芸術であり男のバレーダンサーは尊敬に値する」と考えると恥は生じなくなります。
なので、視線の他律性がここでは問題になります。
他方、Dでは、「恥は判断に関して自律的であるが、Bとは異なり、恥が生じるためには他人の視線は不要であり、自分自身の視線だけで恥は生じる」と言います。
具体例はありませんが、これは「自分で自分を客観視し、自分の自尊心に合わない自分の振る舞いやあり様を自分で恥じる」場合だと認識できれば十分です。
少し長くなりましたが、中村(2018)の類型はとても示唆的です。
特に重要なのは、「判断が自律的」だという点です。
つまり、自分に対する否定的な判断が恥には必ず必要になります。
ここが、山下(2016)と関連するところです。
山下(2016)では、一方向的な発言が不適切発言につながることを指摘しました。
これは、他人のことを思いやれないことから生じる自責の念、つまり、自分にはある発言が自分の否定的評価につながることへの理解が欠如していると解釈することができます。
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③まとめと結論
ようやく、不適切発言は、「自己に向ける否定的判断の欠如がまねく一方向的発言」だと結論づけることができます。
言葉以上の理解には、自分への否定的判断を考慮することが必要なのです。
ある意味、不適切発言をする人はポジティブな人なのか楽観的な人なのかもしれません。
しかし、これは冗談では済まされません。
山下(2016)が述べるように
「ことばの暴力」は・・・むしろ、日常生活において知らず知らずのうちに行っている談話の、あるいは言語形式の内部に存在するであろう。・・・日常生活で「あたりまえ」と思っているところに差別や暴力が、目に見えない形で、あるいは気づかない形で潜んでいる
不適切発言は、意識しないとわからないから恐ろしいのです。
我々も他人事ではないという意識が、不適切発言撲滅の第一歩なのかもしれません。
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参考文献
中村信隆(2018)「『恥を知れ』とはいかなる非難か」哲学, 69, 215-229.
山下仁(2016)「ヘイトスピーチを『ことばの暴力』として考える:批判的社会言語学の観点からの一考察」言語文化共同研究プロジェクト, 3-15.
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