・人間には遊びが大事。
・遊びって何のためにするの?
子供の頃に経験した遊びは、大人になっても心の中に残っています。
子供の頃の好奇心を忘れられず、科学者や研究者になる人も大勢います。
子供の頃に遊びで作ったものを、大人になった今でも残っているという方も少なくないと思います。
遊びとは、現在の心を形成する拠り所でもあります。
他方で、子どもの頃に遊んだ記憶は、どの地方・地域の方と話しても共感を得られるもの。
特に小学生の時にした「鬼ごっこ」、「隠れん坊」、「缶蹴り」などの遊びは全国共通です。
それゆえ、こう言っても過言ではないと思われます。
「僕らは遊びによって形成されている」と。
そんな淡い遊びの思い出が、実は社会の成り立ちと関わると述べたのがロジェ・カイヨワの『遊びと人間』です。
もう少し正確に表現すると、遊びの精神が今の社会の成り立ちに大いに関係しているという。
では、いったいどういうことなのか?
早速その中身を見ていきます。
本記事では以下のことが学べます。
2. 遊びの特徴と定義
3. 遊びの分析方法とその結果について
4. 遊びと我々の文明・文化との関係
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①「遊び」の分析
まずロジェ・カイヨワは冒頭で遊びの一般的なイメージについて考察しています。
遊びは無数にあり、その種類は様々である。・・・ほとんど無限といってよいこうした多様性にもかかわらず、いちじるしく変わらないのは、遊びという言葉がつねに、くつろぎ、リスク、巧妙といった観念をよびおこすことである。とりわけ、それはかならず、休息あるいは楽しみの雰囲気をともなう。・・・ただし現実生活に対しては結実をもたらさない活動を想起させる。
遊びは、現実の生活には役立たないけれども楽しいという感覚などはあるということです。
このイメージは僕らの現代にも当てはまるのではないでしょうか?
誰々と遊ぶというと、何かを作るのでもなくバカなことしたり話したり、純粋に楽しむことを指します。
けれども、僕らは遊びに夢中になる。
このことをロジェ・カイヨワも考察しています。
人は軽い気持ちで遊びに没頭するのだし、また遊びはほかの生産活動とは切りはなされ、孤立の位地を保っているのである。
そんな一般的なイメージから出発して、ロジェ・カイヨワは「遊び」という言葉の概念を分析します。
「遊び」の語源を調べたり、「遊び」から想起されることを調べたりなど。
すると、次のような見解が現れます。
遊びそのものではないが、遊びが表現し、遊びが発展させる心的傾向は、たしかに文明の重要な構成要素であることを・・・示している。通観すると、・・・全体性、規則、自由の諸概念をふくんでいる。すなわち、ある意味は、制約の存在と、制約のただ中において創意する能力とを結びつけている。また他の意味は、もっぱら熱意と執念によるしかない内奥の、まったく個人的な力によってのみ権利を勝ちとる術と、運命から受けとった財源とのあいだに識別をたてている。さらに、第三の意味は計算とリスクとを対立させている。さらにまた、絶対的服従をもとめる掟・・・の存在に気づかせる意味もある・・・。
少し長いですが、今後の議論で出てきますので引用しました。
つまり、概念分析を通して自由や制約など遊びには文明的な面が少なからず存在するということです。
そして、
遊びの固有の願望に並行した現象のあることに気づく。人はそこに、文明の歩みそのものを辿りうる。なぜなら、文明とは、時には権利と義務の、時には特権と責任との均衡のとれた一貫した体系に依拠しつつ、粗雑な世界から管理された世界へと移行することにあるのだから。遊びは、こうした均衡を人々に思いつかせ、あるいは確認するのである。
遊びの概念分析から文明の歩みを引き出しただけではなく、遊びそのものの中に文明の歩みが見られるということ。
ここから、本論が始まります。
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②「遊び」の特徴
本論で、まずロジェ・カイヨワが確認したことは、遊びの定義です。
遊びの研究というと、当時も現在でも有名なホイジンガの『ホモ・ルーデンス』の定義が挙げられます。
ホイジンガの定義に対して、ロジェ・カイヨワは批判的に見ます。
こうした定義は、使われている言葉がみな念入りで、十分な意味を担ってはいるものの、あまりに広く、同時にあまりに狭すぎる。
例えば、批判的な理由として、「遊びは自由で自発的な活動、喜びと楽しみの源泉として定義されるべきである」と述べています。
ホイジンガの定義は今回省きますが(是非本書をお読みください)、「遊び」を捉えきれていないと明確に述べています。
その後、遊びの特徴を考察した結果、以下の六つの特徴があるとロジェ・カイヨワは述べます。
これが有名なロジェ・カイヨワの遊びの定義です。
(一)自由な活動。すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
(二)隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
(三)未確定の活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
(四)非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
(五)規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごととは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
(六)虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。
この六つの特徴を挙げた後に、これらを含む四つの遊びの概念項目を提唱します。
それが、アゴン、アレア、ミミクリ、イリンクスの四つです。
まず初めに、アゴンは、
「すべて競争という形をとる一群の遊び」のこと。
「競争、すなわち闘争だが、そこでは人為的に平等のチャンスが与えられており、争う者同士は、勝利者の勝利に明確で疑問の余地のない価値を与えうる理想的な条件の下で対抗することになる」と具体的に記されています。
今後の議論のことも考えて、ここで重要なのは、「平等に競争する」という部分です。
次に、アレアは、
「アゴンとは正反対に、遊戯者の力の及ばぬ独立の決定の上に成りたつすべての遊びを示」しています。
ここで重要なのは、「遊戯者の力の及ばない」という部分です。
後に述べられているように、アレアに関しては、サイコロ遊びのように運や神の思し召しの要素がある概念なので、「人間の力の及ばない」と言い換えてもいいかもしれない。
三つ目は、ミミクリであり、
「少なくとも、一つの閉ざされた、約束により定められた、幾つかの点で虚構のい世界を、一時的に受け入れることを前提とし」ていて、「彼自身が架空の人物となり、それにふさわしく行動する」という概念区分です。
つまり、物真似です。
ここでは「架空の人物になる」というのがキーワードです。
最後に、イリンクスは、
「目眩の追求にもとづくもろもろの遊び」のことです。
具体的には、例えば、子供が足を軸にしてくるくる回る遊びはこの部類に入ります。
この例の場合、三半規管を目眩させる(狂わせる)ことで遊んでいるということです。
ここで重要なのは、「目眩」。
ある種の幻惑のようなものだと想像しやすいと思います。
この四つの区分が重要です。
他にも区分がありますが、議論の軸が逸れてしまうので、これら四つだけご紹介します。
詳しくは是非本文を読んでください。
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③「遊び」の社会性、文化との関係
では、遊びがどのようにして私たちの文明・文化と関わるのでしょうか?
もっといえば、遊びと社会との接点は何でしょうか?
ロジェ・カイヨワは以下のように述べています。
個人的娯楽と考えたいところだが、競争者も観客もいなければ、人はすぐにそれらの遊びに飽いてしまう。潜在的にせよ、観客が必要なのだ。
一般に、遊びをしていて本当に満ち足りた気持ちを味わうのは、その遊びが周囲の人たちをまきこむ反響を生んだ時だけである。
と述べています。
遊びには、必ず観客であれ競争者であれ、他者の存在が必要なのです。
それゆえ、ロジェ・カイヨワは、「遊びは、アゴン、・・・アレア、ミミクリ、イリンクスと範疇こそ異なれ、すべて孤独ではなく、仲間を前提としている」と述べています。
そしてこれら4つの遊びの概念は、「それぞれ社会化された側面をもっている。これらの社会化された面は、その豊かさと安定性によって、集団生活での市民権を獲得している」とロジェ・カイヨワは結論づけています。
ここに来てようやく、遊びと社会あるいは文明との接点が見えてきました。
他者の存在による社会化がキーポイントです。
そして、最後は、この遊びの概念がどのように文明の歩みと関係するかです。
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④「遊び」と文明の歩み
遊びと文明の歩みとの関係性はどのようになっているのでしょうか?
まず、ロジェ・カイヨワは、遊びの四つの区分から、二つの組み合わせができると述べています。
それが、「アゴンーアレア」「ミミクリーイリンクス」の二つの組み合わせです。
前者(「アゴンーアレア」)の組み合わせはどのような性質を備えているのか?
「絶対的に公平な、数学的に平等な機会」です。
つまり、規則が生み出されるというのが、特徴です。
具体的には省略しますが、人類学の文献を参考にしてこの特徴があると述べられています。
一方、後者(「ミミクリーイリンクス」)の組み合わせの特徴は、
「抑えがたい全身的な興奮への扉をひらく」ことです。
つまり、欲動のようなものです。
フロイトとは違いますのでご注意を。
そして、もう察しがついているかたもいらっしゃるかと思われますが、「遊びの規則と、集団の構成員に普通みられる長所短所との間には、実際に類縁関係があり」「原始的社会・・・ミミクリとイリンクスとが支配している社会である」という結論です。
つまり、最初の社会の成り立ちとして、「ミミクリーイリンクス」による遊び関係が支配的で、
その後、文明が進むごとに「アゴンーアレア」的な遊びの関係性、特に規則や約束が生まれるという形で文明が進んでいく
ということをロジェ・カイヨワは主張します。
いわゆる文明への道とは、イリンクスとミミクリとの組み合わせの優位をすこしずつ除去し、代わってアゴン=アレアの対、すなわち競争と運の対を社会関係において上位に置くことであると言ってもよかろう。
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⑤まとめ
以上が、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』の要約と核心です。
まとめると以下のようになります。
- 従来の遊びの定義では物足りない。
- 遊びは分析すると、6つに区分される。
- その中をさらに類別すると、アゴン、アレア、ミミクリ、イリンクスの4つの概念に行きつく。
- 4つの内、「アゴンーアレア」と「ミミクリーイリンクス」の対によって文明過程を説明できる。
- 文明の発展は、まず「ミミクリーイリンクス」の原始的特徴があり、その後「アゴンーアレア」の規則的特徴が出てくるという順を辿る。
いろんな疑問がおそらく出てくると思われます。
具体的に、どのようにして二つの組が入れ替わるのか?
それぞれがどのようにして根付くのか?
など。
それは、本書を是非呼んでいただければと思います。
あえて言えるとすれば、ロジェ・カイヨワは思弁に頼るのではなく、文化人類学の知見を基に考察しています。説得力もあり、かつ面白い考察です。
遊びと文明・文化との関連性は斬新で面白いと思います。
間違いなく読む価値ありです!
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