
・いつも一部の特権階級だけが経済的にも政治的に得している。
・エリート特権政治を変えるにはどうしたらいいのか?
非正規雇用の拡大。
投票率の低下。
政治家と企業との汚職事件など。
日本の政治には問題が山積み状態。
連日これらのニュースで話題は持ちきりです。
日本国民全員がこれらの問題がなくなることを望んでいます。
なのに、一向にその目処すら立たないのはなぜでしょうか?
そんな国民の声を反映しない民主主義は、民主主義だといえるのでしょうか?
政治家のエゴが民主主義を優越しているのかとさえ思えます。
そのような状況を嘆き、「デモクラシー」ではなく「ポスト・デモクラシー」の到来を予想したのが、コリン・クラウチの『ポスト・デモクラシー』という本です。
では、このポスト・デモクラシーとは何か?
何が原因でそうなったのか?
その意味は?
それらを見ていきましょう。
本記事では以下のことが学べます。

2. 一部特権階級が支配する現代政治の現状
3. 民主主義衰退の理由
4. 新自由主義について
5. 政治と経済との結びつきによる弊害
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①一部エリートによる支配と政治と経済の結びつき
本書の冒頭には、以下の文章がある。
どんな政党が政権に就こうと、国の政策には富める者の利益になるよう一定の圧力が継続的にかけられている。規制なき資本主義経済からの保護を必要とする人々ではなく、むしろ恩恵を受ける人々の利益が優先されるのである。
二十世紀の大半にわたり、組織化された肉体労働者階級が社会的に優遇される富裕層の利益に異議を唱えていたが、それに代わるものが国家の内部に現れていない。その階級が数の上で衰弱した結果、政治はかつての姿と似た様相を呈しつつある。つまり、もろもろの特権階級に利するものとなっているのだ。
クラウチは、初めの引用で、金持ちがより金持ちになるような政策が行われるようになっていることを嘆いています。
その裏で、貧困にあえいでいる方がいるのに、それらの人に向けられた政策が一向に行われず、金持ちが優遇されていると。
そして、二つ目の引用で、現在の特権階級の支配を崩すようなものが提起されておらず、結局は一部特権階級や一部エリートによる政治支配が続いていると。
このような問題を見つめながら、コリン・クラウチは、政治と民間企業との結びつきこそが諸悪の根源だとしています。
政治的重要性を高めるグローバル企業、労働者階級の衰退による空白、政治顧問や企業のロビイストらの新興政治のエリートによる空白の埋め方。これらはいずれも、政府の社会政策が民間の請負業者への委託にこだわりを強める理由の説明になる。
つまり、民間企業(経済的主体)と政治とのつながりが生じたため、一部のエリート層の台頭を招いたとしている。
普遍的な市民的権利を認める国家でどのような主義主張に基づく政治であれ、有権者内の巨大な社会集団が公務への参加から切り離され、わずかな政治への関与についても少数のエリートの決断を甘んじて受け入れるとしたら、それは問題である。
これを「ポスト・デモクラシー」の状態とコリン・クラウチは見ているが、果たして、ポスト・デモクラシーとは何なのであろうか?
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②ポスト・デモクラシーの定義と実態
その前に、そもそも、本来の民主主義とはどのような状態なのだろうか?
コリン・クラウチは以下のように述べている。
民主主義が繁栄するのは、一般大衆が議論や自治組織を通じて公共的生活の方針決定に能動的に参加する機会が豊富にあり、その機会を能動的に活かすときである。単に世論調査の受動的な回答者であるのではなく、国民の大多数が真剣な政治論争や政治課題の形成に活発に参加したり、豊かな知識をもって政治の出来事や争点を追いかけたりする
このような状況を理想の民主主義だとコリン・クラウチはみなしている。
本人ですらも、このような状況を描くのは絵空事にすぎないことはわかっているが、
民主主義に対してはこのアプローチを採ることが不可欠であり、より一般的な、理想の定義を低く設定して達成しやすくする方式は避けなければならない。そこには独りよがり、自己満足こそあれ、民主主義が弱体化する原因を究明する意識が欠けている
と今後の議論の方向性のために理想を設定している。
その上で、ポスト・デモクラシーとは何かを以下のように定義している。
ポスト・デモクラシーというモデルも、たしかに選挙は存在し、政権を交代させることができるが、政治の公開討論は、各陣営の説得術の専門集団によって厳重に管理された見世物となり、そうした集団が選んだ狭い範囲の争点をめぐって展開される。一般大衆は受動的で静かな、さらにはしらけた態度をとり、与えられたシグナルにしか反応しない。そして、この見世物的な選挙ゲームの裏で、選出された政府と、徹底して企業の利益を代表するエリートたちの相互交渉によってひそかに政治は形成されるのである。
これも一つの絵空ごとかもしれないと、コリン・クラウチは述べているが、この状況はあまりにも現代日本に当てはまるのではないだろうか?
コリン・クラウチの議論は驚くほど当たっているように私には思える。
コリン・クラウチの焦点としては、
民主主義の形態はいまも完全に有効であり、今日では強化されている面もあるが、政治も政府も、まるで民主主義以前の時代のように特権エリート管理下へと退歩しつつあること。そして、そのプロセスの重大な帰結として、平等主義の大義の無力さが増していること。・・・民主主義の病弊を単にマスメディアの誤りとスピンドクター(政治家や党派の情報操作アドバイザー)の台頭としてとらえるのは、はるかに深刻な進行中のプロセスを見落とすことにほかならない。
ということである。
政治家のプロパガンダやメディアの宣伝のせいにすることは議論の矮小化をまねきます。
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③民主主義の衰退と新自由主義
では、なぜ民主主義がそれほどにまで衰退したのだろうか?
様々な理由があるが、ここでは、二つの要因について述べる。
まず一つ目は、ポジティブな市民的行動の衰退が挙げられる。
コリン・クラウチは、市民の政治的行動にはポジティブな面とネガティブな面との二つの面があると述べている。
能動的な民主的市民の概念に二つの種類があることも見逃せない。一方にあるのは前向きの市民的行動であり、そこではグループや組織が集団のアイデンティティ(宗教、職能、地域、ジェンダーなど政治参加の単位となる集団の共通性)を育み、そのアイデンティティの利益を認識して、それをもとに要求を独自に立案し、政治機構に伝える。もう一方は非難と不満による否定的な行動主義で、この場合、政治論争の主な目的は、政治家を引っ張り出して逃げ場のない状況で釈明させ、公私にわたる誠実さを厳しい目にさらすことにある。
つまり、一方は、我々市民の政治への積極的働きかけであり、他方は不満や怒りを爆発させて政治に訴える行動に近い。
政治にはこの二つの行動が必要だが、
現在は否定的な面のほうがはるかに強調されている。これは憂慮すべき事態である。民主主義の創造力を象徴するのは明らかにポジティブな市民性だからだ。ネガティブなモデルは、政治エリートへの攻撃性はあるものの、民主主義に対する消極的姿勢と同様、政治は本質的にエリート層の仕事であるとの考えに支えられている。
この状況は、ポスト・デモクラシーの枢軸の一つである「エリート主義の台頭」へとつながる。
次に、二つ目は、新自由主義の台頭であり、政治と企業(経済主体)の結びつきである。
ちなみに、新自由主義については以下の二つの記事でまとめています。
合わせて読んでいただけると幸いです。
「世界の政治経済を席巻する新自由主義とは何か?その経緯と展開」
実際のところ、国家が庶民の生活への援助から手を引き、一般の政治への関心が薄れれば、それだけ大企業グループは国家を私的な金のなる木としてひそかに利用しやすくなる。
また、ここまでの議論は国内の内的な原因であるが、外的要因として、「経済のグローバリゼーション」を挙げている。
この経済のグローバリゼーションの影響とはいかほどのものなのか?
グローバリゼーションは明らかに競争を激化させ、個々の企業の弱点をさらけ出す。だが、競争に勝ち残った者は強靭になり、しかもその強靭さが発揮される対象は競争相手だけでもなければ、主に競争相手というわけでもない。政府や労働力もその対象となる。グローバル企業のオーナーたちは、地元の財務・労働制度に不満を感じた場合、移転する意思をちらつかせるだろう。そのようにして政府に近づき、実施される政策を、名ばかりの市民たちよりよほど効果的に左右してみせる。
グローバル企業の成功者が、政治へ関与するようになり、新自由主義がますます加速するのである。
さらに、
グローバル企業のエリートは私たちの投票権を奪うような露骨な真似はしない・・・政府に対して、たとえば、労働者の広範な権利をあくまで維持するつもりなら、国に投資しないと名言するだけである。その国の主要政党はいずれも開き直る勇気がなく、時代遅れの労働規制を改革しなければならないと有権者に告げる。すると有権者は、規制解除の提案と知っていようといまいと、ほかの選択肢はないに等しいため、正式にそうした政党に投票する。この場合、労働市場の規制解除は民主的プロセスによって自由に選ばれたといえる。
追い打ちをかけるように、グローバル企業により、政治のエリート化が進み、かつ下層労働者に不利な政策が民主主義のプロセスを経て採択されていくのである。
コリン・クラウチは、その他にも、新自由主義が具体的にどのように政治や国家に入り込むのかを説明し、政党の変化、国家政策の外部委託などの要因も挙げている。
これらの要因がすべて重なり、ポスト・デモクラシーへと我々は向かっている。
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④市民の運動への積極的参加による打開
では、どのようにすれば我々はこのポスト・デモクラシーの状態から抜け出すことができるのだろうか?
それには、三つのレベルでの方向転換が必要だとコリン・クラウチは述べる。
一つ目が、「企業エリートの強まる支配に取り組む政策」の策定である。
コリン・クラウチは、具体的な案は出していないが、可能性は示している。
時代と場所によっては、民主主義は企業グループ(あるいは、軍部、あるいは教会)の政治力を縮小する政治家の能力を頼りとしつつ、一方で富を生み出す(あるいは戦闘の、あるいは道義的な)力としての企業の実効性を維持してきた。民主主義を繁栄させるには、こうしたバランスを見つけなければならない。
抽象的であるが、グローバル化の流れは止めることできないため、できることとしては、政治と企業とのバランスをはかることとなる。
二つ目は、「そのような政治の慣行を改革する政策」である。
政党、顧問のグループ、企業のロビイストたちのあいだの金銭と人員の流れを阻止するために、あるいは少なくとも厳重に規制するために、新たなルールが必要だ。企業の献金者と、公務員、予算配分基準、公共政策の立案との関係を明確にし、成文化しなければならない。独自の倫理と目的を持つ分野である、公共サービスの概念を再建しなければならない。
これも抽象的であるが、政治と企業の間の流れを止める政策が必要だということだ。
最後は、「憂える市民にも可能な行動」をすることである。
具体的には、既出のポジティブな市民活動のことである。
また、新たな社会的アイデンティティの形成も有効だという。
そのアイデンティティは政治システムの外部にいることに気づき、参加の許可を声高かつ明確に求め、型にはまったポスト・デモクラシーの演出されたスローガンだらけの選挙戦を混乱させるだろう。
コリン・クラウチは、代表例としてフェミニズム団体やエコロジー運動を挙げている。
そして、「こうした民衆の新たな破壊的創造性の継続的な発露は、平等主義の民主主義者に将来への大きな希望をいだかせる」と。
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⑤まとめ
以上が、本書の要約と核心部分である。
現代の政治は、まさにコリン・クラウチの述べるポスト・デモクラシーの時代です。
そのポスト・デモクラシーの状態は、一部エリート層にとって都合の良いもので、市民にとっては悲惨な状況です。
ポスト・デモクラシーへの明確な対策をコリン・クラウチは考案していないが、一つ言えるのは、政治への積極的な市民参加です。
団体をつくるのでも良いが、まずできることは、選挙に行くこと。
そして、政治・経済・歴史を勉強し、自分の意見を持って、できれば提案を行うことだと思われます。
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