・民主主義の終わりって言われているけどどうなの?
・民主主義が衰退している。
民主主義とは何かと聞かれるとなかなか明確に答えることはできません。
しかし、日本が民主主義に基づいていることは理解できます。
普通選挙に代表される参政権などの政治に関する権利は、民主主義であることを象徴しています。
しかし、投票によって選ばれた議員の暴走や汚職事件などを見聞きすると、民主主義が本当に機能しているのかはわかりません。
それゆえ、世間では、「民主主義は終わる」「民主主義は生き残れない」などとささやかれています。
そんな中で、「民主主義が生き残るにはどのようにすればいいのか」という難題に、過去の民主主義の変遷過程を追うことで答えを出そうとしている書籍に出会いました。
それが、マクファーソンの『自由民主主義は生き残れるか』です。
マクファーソンは、民主主義の生き残り戦略として、
適切にも自由民主主義と呼ばれうるなにものかが続いていくか否かは、市場的想定の格下げと自己発展への平等な権利の格上げにかかっているということだ
と述べています。
果たして、マクファーソンの真意とは何か?
『自由民主主義は生き残れるか』の内容を参照しながら、理想の民主主義について考えたいと思います。
本記事では以下のことが学べます。
2. 民主主義の歴史的変遷過程
3. 様々な民主主義の特徴と問題点
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①マクファーソンの前提:四つの民主主義モデルをなぜ考えるのか
マクファーソンは、過去の民主主義モデルを作成して民主主義について考察しています。
なぜ現実の政治や歴史を参照するのではなく、ある程度抽象化した「モデル」での考察を行うのか?
それは以下の目的からです。
民主主義のモデルを吟味することは、自由民主主義を欲する人々、あるいはそれをより多く欲する人々、またはその現行形態のなんらかの変種を欲する人々が、自由民主主義とはかくかくのものだと信じ、そしてまた自由民主主義とは何でありうるか、あるいはかくかくあるべきだと信じていることを吟味することにほかならない。このことは、単に既存の自由民主主義国家の運用や制度を分析することによってなされうることを上廻る。そしてこの“上廻る”知識が重要なのである。というのは、ある政治体制についての人々の信念は、その政治体制の外側にあるものではなく、それの構成部分だからである。これらの信念こそが、それがどのように形成され決定されていようとも、その体制の限界と可能な発展を規定するものである。
つまり、モデルという抽象物に頼ることで、実際の歴史や出来事以上の、「上廻る」帰結を理解しようというのです。
マクファーソンは、四つの民主主義モデルを描きました。
その四つをご紹介します。
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モデル①防禦民主主義
19世紀中ごろまでは、この民主主義が働いていたとマクファーソンは述べています。
ちょうどこのころは、ベンサムやジェームズ・ミルに代表される功利主義の考え方が主流の頃です。
功利主義は、簡単に言えば、「最大多数の最大幸福」を追い求める思想で、全ての幸不幸を足し合わせて、幸福を最大にできればいいというような考え方です。
では、この功利主義がはびこる世界での防禦民主主義とはどのような民主主義なのでしょうか?
政治体制は、自由な市場社会を確立し育てあげるような政府を生み出すと同時に、強欲な政府から市民を防衛しなければならない
このような民主主義です。
この時代は、選挙権が庶民にも広まり始めた時代です。
そしてこの時代の主な問題は、「選挙権の範囲と真正さについてのどのような規定が、自由な市場社会を促進する政府を生み出すと同時に市民を政府から防御するであろうか」ということでした。
つまり、最大多数の最大幸福を実現する自由な市場経済を営む政府とその政府から自己の利益を守ることの両立ですね。
最大多数のために、自分の利益を犠牲にされることから守るという意味で政府からの防禦だと解釈できます。
その時、政府から自己防衛するために、人民にできることは、選挙に行くことです。
政府が人民の残り全部から強奪するのを防ぐ唯一の道は、全人民の多数によって統治者をしばしば交代させることである。最大多数の投票によって選出され更迭されうる人々の手中にある場合は別として、それ以外のどんな人々の手中にある権力も『他の人々の幸福がどうなるかにはおかまいなく、必然的に、自分たち自身の幸福を増進することになりそうな一切のことに向けられるであろう。そして彼らの受け取る幸福が増すのに比例して、統治者全体の幸福量の総和は減っていくであろう』。幸福は、一つのゼロ・サム・ゲーム・・・である。統治者が多くを持てば持つほど、被治者の持つ分は小さくなる。
投票は政治的力であり、あるいは少なくとも投票の欠如は政治的力の欠如であった。それゆえ万人が自己防衛のために選挙権を必要とした。『一人、一票』に及ばないような選挙制度では、原理的に一切の市民を政府から防禦し得ない。
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モデル②発展民主主義
19世紀ごろから20世紀中ごろまで。
民主主義にも変化が起こり、発展民主主義が現れたとマクファーソンは述べています。
まず変化とはなんでしょうか?
変化の一つは、労働者階級・・・が財産にとって危険な存在に思われ始めたことである。もう一つは、労働者階級の状態があからさまに非人間的なものになったため、感受性のある自由主義者たちが、その状態を道徳的に正当化しうるとか経済的に不可避なものだとして、受け入れることができなくなったということである。
要するに、労働者階級の台頭ですね。
それが、ブルジョワ階級等にとっては脅威になったということです。
そうして新しい民主主義のモデルが必要になりました。
労働者にも光が当たるようになり、人間自身の考え方も捉え直されました。
具体的には、
人間は自らの力と潜在能力を発展させることのできる存在である。人間の本質は、それらを行使し発展させることである。人間は本質的に消費者、領有者・・・ではなく、自らの潜在能力の行使者、開発者、享受者である。よき社会とは、自らの潜在的能力の行使者、開発者として、さらにその行使と発展の享受者としての万人がふるまうことを認め奨励するような社会である。
お金持ちのように最初から何かを持っていたり、単なる消費者であったりするような静的な人間観から脱却します。
そして、成長し、能力や権力を行使する動的な人間観が現れたのです。
それに伴い、民主主義への考え方も変わりました。
どのように変わったのでしょうか?
人類の向上可能性とまだ達成されていない自由で平等な社会についての道徳的ヴィジョンを持っている・・・民主主義的な政治体制はこの向上への手段・・・として評価される。そして民主主義社会はこの向上の結果であるとともに、より一層の向上にとっての手段として考えられる。
民主主義的な政治体制を支持するのは、それが他のどのような政治体制にもましてこの前進を促進するから
このような民主主義の捉え方は、当時の人々にも政治的行動を促します。
民主主義を支持する理由は、それが、すべての市民に政府の行動にたいする直接的利害関心をもたせるようにし、そしてまた少なくとも政府を支持したりそれに反対して投票する程度にまで、さらには望むらくは、自己を啓発し、他人との討論を通じて自らの意見を形成する程度にまで、積極的に参加する刺激を与える点にあった。いかに恩恵的なものであろうとも寡頭制的体制とくらべてみて、民主主義は、すべての人々に実践的な利害関心、自らの投票によって政府を引き下ろすことが可能であるがゆえに実効的でありうる利害関心をひきおこすことによって、人々を政府の運営に引き込んだのである。民主主義はこうして人民をより活動的にし、より元気溌剌たらしめる。
オロナミンCみたいな効果ですね(笑)
ちなみに、この発展民主主義の大きな特徴は、政党制が大成功したことです。
しかし、この政党制は諸刃の剣でした。
男子普通選挙が・・・階級政府をもたらさなかった理由は、政党制がこの民主主義を飼い馴らすのに異常な成功を収めたことである。・・・現実の民主主義過程をして、その主唱者が主張しあるいは希望した実効的な度合いの参加を提供することを概して不可能ならしめ、また自由民主主義に与えられた主要な根拠である、あの人格的発展と道義的共同社会を促進することを不可能ならしめた
政党制により、上層階級による政治的支配から逃れることができましたが、この発展民主主義を壊すことになりました。
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モデル③均衡民主主義(多元的エリート主義的均衡モデル)
20世紀中ごろ~現在
この頃に想定されていた社会は、「多元的社会であるということ、すなわち、各人が自らの多くの利益によって多くの方向に引っぱられ、いまは彼の仲間の一つの集団と一緒になり、つぎにはまた別の集団と一緒になるというような個人から構成されている社会」でした。
それゆえ、民主主義の考え方も発展民主主義とは大きく異なります。
均衡民主主義の特徴は、以下の二点です。
- 「民主主義とは単に政府を選び権威づける一つのメカニズムであって、社会の種類でも一組の道徳的目的でもない」(モデル②発展民主主義への批判)
- 「このメカニズムは、政治家たちにつぎの選挙まで支配する資格を与えるような投票を求めて、政党に勢揃いする二組ないしそれ以上の組の自己選抜的な政治家たち(エリート)の間の競争からなる」(選挙で選ばれたエリートによる支配)
住民によって選ばれたエリートが統治する政治で、投票はそのエリートに「政治してもいいよ」という権威を与えるものだとする考え方です。
では市民の役割とは何でしょうか?
市民の役割はただ単に、定期的に選挙の時に何組かの政治家たちの間から選抜をおこなうことである。こうして市民はある政府を別の政府にとりかえる能力をもっているので、彼らは専制から保護されるのである。そして、政党の政綱や各党が政府を担ったときに・・・期待されるはずの政策の一般的方針になんらかの相違がある範囲に応じて、投票者は諸政党の中から選抜をおこなうさいに、彼らの欲求を政治的財の別の一組にたいしてよりも、この一組にたいして登録するのである。最も多くの投票を得た一組の政治的財の仕出屋が、つぎの選挙まで授権された支配者になる。
一般市民は投票だけでき、政党のマニフェストに基づいて統治しても良いエリートを選ぶということですね。
そして、次に選挙があるという事実が専制政治の抑制剤となっているのです。
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モデル④参加民主主義
理想段階
最後のモデルとして挙げているのが、参加民主主義です。
しかし、マクファーソンも述べているように、この民主主義モデルは、モデルといえるほど確立していません。
なので、理想像のようなふわっとした構想段階です。
どんな民主主義かというと、電子技術やインターネット技術によって、全市民が政治に直接参加できるような民主主義であると漠然と述べています。
直接民主制の現代版みたいなものですが、これを実現するには二つの問題があると言います。
①「人民の意識(ないし無意識)が、自らを本質的に消費者とみなし行動することから、自らを自分自身の潜在能力の行使と開発の行使者・享受者とみなし行動することへと変化すること」
これは発展民主主義の前提と少し似てますね。
なぜこのように自己のイメージを変える必要があるかと言うと、「共同社会意識を・・・もたらすから」だと言います。
自身の政治に関して個人のエゴで判断していてもちっともよくならないからです。
共同社会意識を持つことで、主体的に自分の属する政治を良くしていく必要があるのです。
参加民主主義では、より個々人の行動が反映されやすいので、余計に共同社会意識が必要となります。
一応理由は述べられていますが、なぜ後者の自己イメージだと共同社会意識が生まれるのかは納得がいきません・・・。
②「現在の社会的・経済的な不平等を大いに減じること」
直接参加する政治では、不平等があると参加しないあるいはできない人が出てきます。
全員参加が必須の民主主義で、身分の違い等で政治に参加できなくなると、よりお金持ちの人やより権力のある人の方へと政治が傾いてしまいます。
なので、不平等がなくならないといけないのです。
この二点をまとめて、マクファーソンは、結局「いまあるよりもずっと多くの民主主義的参加なしでは実現されえないであろう」と述べており、個々人の政治的参加が必須になります。
それをどう実現するのかが今後の課題となるでしょう。
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まとめ
以上より、マクファーソンの『自由民主主義は生き残れるか』を参考に、民主主義のモデルと歴史的変遷過程を見てきました。
まとめると以下のようになります。
- 防禦民主主義では、功利主義の下市場を維持しながら、自己の利益を守る必要があった。
- 発展民主主義では、労働階級が台頭し、人は自ら成長するという動的人間観を前進させることが目的だった。
- 均衡民主主義では、一部エリートの入れ替えが政治であり、民衆は選挙で権威的お墨付きを与えていた。
- 参加民主主義では、全市民が政治に参加するために、不平等を無くさないといけない。
いろいろな考え方がありますが、どの民主主義でも共通しているのが、市民が政治へ積極的に参加することです。
ここでマクファーソンの冒頭の言葉「市場的想定の格下げと自己発展への平等な権利の格上げ」とはどういう意味か?
おそらく、民主主義がはびこる政治の分野に市場経済を介入させないことと民衆各自の不平等を無くすことだと思われます。
投票に行くこと。
政治について勉強すること。
友達と議論したりすること。
なんでもいいですが、政治に関与する心意気を持たなければなりません。
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