・あの人の言葉は信用してしまう。
・言葉に魅了される。
私たちが日常で何気なく使う「言葉」。
その言葉には不思議な力が宿っています。
例えば、同じ言葉でも、一般人が話した場合と専門家が話した場合とでは、その言葉の重みが違います。
逆に、同じことをある人が話すだけで信憑性が高まり、他の人が話すと全然信頼できなかったりもする。
日常生活では、言葉(言語)にある種の掟のようなものがある気がする。
これは、英語であれ、ドイツ語であれ、日本語であれ共通します。
上の例では、権威が言葉を重くするし、人柄が言葉に信憑性を与えます。
では、この言葉の掟やルールとはどのようなものなのなのでしょうか?
それを徹底的に考察したのが、ミッシェル・フーコーの『言語表現の秩序』です。
その中身を分かりやすく自分なりにまとめてみました。
なお、最近、『言説の領界』という名前で新訳が文庫で出ていますので、そちらをチェックしても良いかと思われます。
本記事では以下のことが学べます。
2. 我々が従っている言葉の掟にはどのようなものがあるのか
3. 言葉の裏にある権力を知る
4. 言葉の掟から逃れるためにはどうしたらよいか
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①言葉の掟に関する仮説
あらゆる社会において、言説の生産は、いくつかの手続きによって同時に統御され、選択され、組織化され、再配分されるものと私は想定する。そして、それらの手続きは、言説の力と危険とを払いのけ、その行幸に左右される出来事を支配し、その重苦しく、おそるべき物質性を避ける働きをする、と。
フーコーは本論の冒頭で、上記のような仮説を宣言します。
私は、初めてこの仮説を目にしたとき、全くは理解できませんでした。
しかし、本書を読み進めていくと、結局全てはこの言葉に帰着することがわかります。
一般的に、仮説を提示するのであれば、わかりやすい言葉で提起するものですが、この辺がフーコーらしい。
では、フーコーは本書で何をしたいのか?
主に彼が行ったことは、言語表現の掟のようなもの、まさに「言語表現の秩序」を指摘することです。
言い換えれば、言葉を表現するに当たっての暗黙の了解みたいなもの。
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②言葉の掟の外的要因
まず、フーコーは言葉の掟の外的要因を3つ挙げます。
一つ目が、<禁止>です。
フーコーの言葉を引用すれば、
よく知られているように、人はすべてを言う権利もなければ、ところ構わずにすべてについて語ることもできない。つまり、誰でもが何事についても語ることはできません。対象についてのタブー、そのときどきの状況に応じた儀礼
例えば、お葬式で笑いを誘うようなことがタブー視されていたり、病院で死をほのめかすのが禁句といったような場合です。
二つ目が、分割と拒否です。
フーコーのわかりやすい文章では、
ヨーロッパにあって数世紀の間、狂人の言葉は聴き入られなかった
つまり、狂人の場合だと、言葉自体を信用してもらえなかったり(拒否)、普通とは違うと思われたりする(分割)ということです。
三つ目が、真実と虚偽の対立、あるいは「真理への意志」です。
フーコーの例を記せば、
紀元前六世紀当時のギリシアの詩人たちにあっては、真なる言説ー言葉の勝義かつ本来の意味でのー人々が尊敬もし怖れもした真なる言説、その支配のもとにあるがゆえにしたがわねばならぬ言説、とは、権利をもったものにより、必要な儀式にしたがって述べられた言説であったからであります。
つまり、無条件的に正しい言葉や真なる命題の類です。
フーコーは、科学や様々な制度(書物・学者など)の上に成り立つ真実なども挙げています。
ちなみに、なぜ「外的」要因なのかと言うと、三つのものは言語それ自体から生じるものではないからです。
一つ目の例は、環境・その場の雰囲気などですし、三つ目に関しては、科学など他の権威筋が関連します。
なので言語の「外的」なのです。
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③言語の掟の内的要因
この流れから、フーコーはもちろん内的要因も探求します。
こちらも三つあります。
一つ目は、注釈です。
フーコーの言葉だと、
きまった言いまわしのかなたに、限りなく<言われ>、言われたままでおり、なおも言われるような言説もあるのです。われわれはそのような言説がわれわれの文化システムの中にあることを知っています。宗教の、あるいは法律の原典がそうであり、「文学的」と呼ばれる奇妙なテキストも、そこにある規約からして、そうであり、科学的なテキストもある程度までそうだと言えます。
つまり、ある決まった解釈のことです。
例えば法律には様々な解釈がつきます。
他にも、宗教の教典にもだいたい決まっていますが、さまざまな解釈があります(聖書などはその典型例)。
これらのある程度決まった解釈は、何度も繰り返され、いつのまにか決まった解釈が幅をきかせるようになります。
このような過程を経て言葉に威厳のようなものが出るのです。
二つ目は、作者です。
フーコーの言葉では、
或テキストを述べたり書いたりした語る個人を意味するものではありません。言説の集合原理としての、それらの意味作用の統一体あるいは起源としての、それらの一貫性の中心としての、作者のことであります。
少し抽象的でわかりにくいですが、例えば、哲学、文学、科学で、作者への言及は必須事項となります。
誰々が作ったと言うことによって、文章や作品のイメージが出来上がると表現した方がわかりやすいかもしれません。
このように、作者が言語の表現の意味を規定するのです。
三つ目は、学問(の組織)です。
フーコーの分かりやすくて適切な引用部分はありませんが、学問の体系化による表現の縛りと言った方がわかりやすいかもしれません。
学問に属するためには、命題は、理論的な地平の或る型の上に登録されえなければならないのです。そのためには、次のことを想い起こすだけで十分でありましょう。すなわち、未開言語の探求は、十八世紀に至るまで完全に受け入れられていた主題であったが、それは十九世紀の後半において、どのような言説をも、誤謬のうちにとは言わぬまでも、妄想、夢想、純粋にして単純な言語学的な奇型のうちにおとしめるに十分であった、と。
これらの内的要因は、まさに言語自体から生じる掟のようなものです。
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④第三の言葉の掟の要因
最後に、第三の掟をつくる要因も存在します。
問題となるのは、およそ、言説の当然含む力を支配することでも、それらの出現の偶然生を払いのけることでもなく、それらの活動の諸条件を決定し、そうした言説をもつ個々人に若干の規則を課し、かくして、万人をそれらに近づかせないようにすること
その代表例として挙げているのが、「儀式」です。
儀式は、祭りとか宗教などを想定していただくとわかりやすいと思います。
あのような儀式は、参加する人や参加者の言動が全て決まっています。
なので、外的・内的両方とも儀式の名の下では規制されてしまいます。
儀式は、語る個々人・・・がもつべき名称を規定する。それは、身振り、行動、状況および言説にともなうべき表徴の総体を規定する。最後に、それは、言葉に関して想定された、あるいは付与された有効性、それがさし向けられる人々に対するその効力、拘束力をもったその意味の限界、などを決めます。宗教上、司法上、治療学上の言説、それに一部の政治的な言説は、語る主体に対して、同時に特異な性質とふさわしい役割とを決定する儀礼の実施から、ほとんどひきはなすことができません。
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⑤言葉に伴う権力
まとめると、外的・内的・両者を包む三つの言語表現の掟を見てきました。
では、これら三つの言語上の掟を指摘することでフーコーは何を目指しているのでしょうか?
これは個人的な解釈になりますが、これまで述べてきた三つの要因は、言葉にはびこっている権力のようなものではないか。
つまり、我々が意識的か無意識的かに関係なく、これらの要因によって言葉や発言が左右されているということをフーコーは指摘したかったのだと思います。
では、これらの要因を逃れるにはどうすればいいのでしょうか?
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⑥言葉の掟という権力から逃れるために
フーコーは、「方法上の要求」と表現していますが、それが4つあります。
一つ目が、<逆転>の原理です。
「言説の切断や稀少化といった否定的な働きを、認めるべき」だという原理です。
作者や学問などのようにまとまった言説ではなく、当事者だけが語るとぎれとぎれの断片的な言説、稀な言説の価値を見直すことです。
二つ目が、<非連続生>の原理です。
ある体系的な考え方ではなく、「言説は、互いに交錯し、しばしば相接した、しかし、互いに知らず、拒け合うような、非連続的な実践として扱われる」という原理です。
一つ目と似ています。
三つ目が、<特殊性>の原理です。
これは説明するまでもなく、既存の言語表現の掟に頼るのではなく、言説の一回性を重視することです。
四つ目が、<外在性>の規則です。
言葉の権威筋に頼るのではなく、個々人の発言を深めていき、そこから規則性などを見つけることです。
フーコーの文章もわかりやすいです。
言説からその内面的で隠れた核心へと赴かないこと、また、言説のうちに自己を表わす思想や意味作用の中心へ赴かないことです。そうではなくて、言説それ自身から、その出現から、その規則性から出発して、その外的で可能的な諸条件へ、これらの出来事の行幸的な系をもたらし、その限界を定めるものへと赴くことです。
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⑦終わりに
以上が、フーコーの『言語表現の秩序』(『言説の領界』)の要約と解説です。
ここまでくれば、冒頭の引用部分は理解できるのではないでしょうか?
言葉の掟は、言葉の危険性や具体性を避ける傾向があります。
しかし、フーコーはそれではいけないという考え方です。
俗っぽくいえば、生の言葉に注意を向ける大事さ、言葉の掟には一種の権力が働いていること。
我々が何気なくコミュニケーションする上での教訓を示しています。
本書は、フーコーの著作の中でもかなり短い文章ですが、その主張は広大であると言えます。
読んでみる価値は大いにあります。
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